
2026.03.04Story
#縄文火焔
「うもれあ」で津南の歴史と文化の蓄積に対面しよう
文本間 大樹

#縄文火焔
文本間 大樹

津南は旧石器時代から縄文時代、弥生時代を中心に遺跡が多く出土する。それらを保管&展示する施設として、2025年10月、津南町に埋蔵文化財センター「うもれあ」がオープンした。旧中津小学校校舎を利用した建物には、約2,200点もの土器などが展示され、3万点を超える関連書籍も保管されている。この地の悠久の歴史と文化を辿る新たなスポットを紹介しよう。
国道117号線から中津川に沿って走る国道405号線を秋山郷方面に向かって車で約5分、左手に見えてくる大きな三角屋根の建物が津南町埋蔵文化財センター「うもれあ」だ。2015年に中津小学校が廃校となったが、その廃校舎を利用した。 そもそも埋蔵文化財センターとは地域内の埋蔵文化財の発掘、研究、収蔵、展示を行う公共機関で、各都道府県や市町村がそれぞれ運営している。大小合わせると全国で400~500か所あるとされる。
津南町教育委員会文化財専門員の佐藤信之さんは、「ご存じの通り、津南町はあらゆる時代の遺跡や埋蔵物が豊富な地域です。約3万年前の旧石器時代から、縄文時代、弥生時代、中世から近世に至るまで、この町で出土したものや資料を一堂に集めました。町営でありながら、総合博物館に匹敵するほどの幅広い所蔵と展示ができている施設は珍しいと自負しています」と力を込める。
ちなみに「うもれあ」は「埋もれている文化財」と、real(リアル、現実)」かつ「Rare(レア、貴重な)」を合わせて作られたそうだ。「過去の貴重な埋蔵文化財をリアルに学び、その体験を現在に活かしてほしいという願いが込められています」と佐藤さん。まさにその名の通り、展示されているものは本物=リアルなものがほとんどで、しかも撮影OK。この地域の歴史の蓄積をたくさんの実物を通して肌で感じ、しっかりと学び取ることができる。これで入館料も無料だというのだから、嬉しい限りだ。
まず1階のエントランスから入ると奥に図書室がある。「各自治体や個人の研究者などから寄贈されたものを保管しています。津南町に関係する歴史民俗の専門書が多いですが、現在は目録を作成中で、それらの整理が終わればすべて閲覧可能になります」と佐藤さんは説明する。
前面に縄文土器が一列に並んだガラスのウインドウの奥に縄文土器研究の第一人者である可児通宏さんの研究資料が並べられている。さらに奥の部屋にはこれから整理されるのを待つたくさんの書籍が。「考古学などほとんど知らない初心者の人から、大学生、そして研究者まで関心を持ってもらえる、幅広い書籍、資料が集まりました」と佐藤さんは胸を張る。

階段を上がり2階に足を運ぶと、そこには縄文草創期、中期、晩期の3つの部屋があり、それぞれの時代の土器や石器などの埋蔵物が展示されている。 縄文時代はいまから約1万6000年ほど前から3000年ほど前までの1万数千年に及ぶ長い時代をさす。旧石器時代と弥生時代にはさまれた時代で、土器や磨製石器の使用、狩猟採集を中心にしつつ定住的な生活であったことなどが大きな特徴だ。

まずは第1展示室、縄文時代草創期に当たる部屋に入る。まっさきに目につくのは国指定重要有形文化財に指定されている「本ノ木遺跡」の多くの出土品だ。たくさんの石を削ってできた大小さまざまな形の尖頭器と「押圧縄文土器」と呼ばれる縄文時代草創期の土器とその破片が並んでいる。
佐藤さんは、「この本ノ木遺跡が発掘され、学会を席巻する論争が起きました。この押圧縄文土器と発見された尖頭器が同時期のものか、時代的に前後するものかという点です」と説明してくれた。 昭和31年に第1次調査を行った芹沢長介は尖頭器は無土器時代のもので、押圧縄文土器はその後に作られたものが混入したとしたのに対し、第2次調査を行った山内清男は両者が時代的に共存したものと主張して論争になった。


調査発掘はその後も続けられ、いまだ議論は続いているという。「いずれにしても、本ノ木遺跡の埋蔵物が旧石器時代晩期から縄文草創期に移行する非常に貴重で稀有な資料であることは間違いありません。2019年10月に国の重要文化財に指定されました」と佐藤さんは本ノ木遺跡の価値を強調する。 縄文時代の始まりとその謎が、目の前の埋蔵物の存在によって直接私たちに投げかけられる。並んだ尖頭器を眺めていると悠久の時代を超えて、それらがそっと真実を語りかけてくれるような気がしてくる。
第2展示室は縄文時代中期の部屋で、足を踏み入れた途端にあの有名な火焔型土器の迫力のある姿が目に飛び込んできた。かつて芸術家の岡本太郎は、この土器を見て思わず「なんだ、これは!」と叫んだそうだ。炎が揺らめくような開口部の装飾は、他の縄文土器とは明らかに一線を画すものだ。

「通常の縄文土器はその名の如く土器に縄目の文様が付いていますが、火焔型土器にはそれが見られません。代わって粘土をひも状にして土器の表面に貼り付け、渦巻状の紋様を描いています。さらに開口部には4つの大きな鶏冠状把手(けいかんじょうとって)と、その間には鋸の歯のような鋸歯状突起(きょしじょうとっき)が飾られています」(佐藤さん)
火焔型土器は5000年ほど前に出現し、その後数百年ほど続いたと言われている。まさに縄文時代中期の時代で、その分布は信濃川流域を中心に、佐渡を含めた新潟県内の各地域に広がっている。 よく言われることだが、開口部にこれだけ装飾を施している土器は縄文土器の外にまず見当たらない。煮炊きなど実用にはあまりにも不便な装飾をなぜ施したのか? 佐藤さんはその点について以下の様に説明する。「祭祀に使われたという説もありますが、出土した土器には実際に煮炊きした形跡がある。いまの私たちが当たり前だと考えている合理性とは違った価値観を当時の人たちは持っていたのかも知れません」

この部屋では縄文時代の中期中葉土器群に分類される火焔型土器だけでなく、その後の中期後葉土器群、中期末葉土器群なども展示されている。後葉以降になるとさすがに過剰な装飾は影を潜め、シンプルなデザインになり、実用性が高められたものになっているのがわかる。
3つ目の部屋は縄文時代晩期の埋蔵物が展示されている。火焔型土器のような派手な装飾はないものの、深鉢型だけではなく、浅鉢形や注口形など様々な形の土器が登場する。 縄文時代晩期の部屋で目につく展示の1つが正面ヶ原A遺跡のものだ。同遺跡は町内唯一の縄文時代晩期の大規模集落遺跡で、住居跡やお墓跡といったものが多く発見され、当時のムラの様子や社会を知るための重要な遺跡とされている。

同遺跡では円形の居住地の周辺に墓域が配置されている。この時期の埋葬には大きく分けて体を曲げて埋葬する「屈葬」と、まっすぐに伸ばした「伸展葬」の2つがある。じっさいに発掘された石棺の実物大のレプリカが、スペースの中央に置かれている。
「まず細長い墓穴が掘られ、上から細長い礫で蓋として覆う構造です。このような石棺が数多く出土しました」と佐藤さんは説明する。死者を手厚く葬る縄文時代の人々の精神性が伝わってくるようだ。
さらにその奥には堆積した地層の断面が展示されている。「当時の縄文人はトチの実を主に食していました。その形跡がわかるように実際の発掘で明らかになった地層を剥ぎ取ってきたものです」と佐藤さん。黒い層がトチの実が大量に堆積したものだと説明してくれた。
トチの実は保存が効くが、食するには渋を抜かなければならない。その渋抜きが大変なのも特徴だ。「渋抜きには水が不可欠です。そのため周辺に小川があることが条件ですがまさにこの層が発見されたのもそのような小川のすぐそばでした。当時の集落と小川は切っても切り離せないもので、集落が長きにわたって同じ位置なのもその理由からだとされています」(佐藤さん)


周辺から石剣や石冠、石棒のような直接生活と関わるとは考えにくい道具類が多数出土している。恐らくこれらは祭儀で使われたもので、日常生活と祭儀が密接に結びついた文化を持っていたことが想像できる。
もう1つ面白いのは縄文時代のモノと人の動きだ。このスペースでは黒曜石と蛇紋岩を例に挙げて説明されている。「石器の原材料の1つとなっている黒曜石は津南町の遺跡において、正面ヶ原A遺跡で最も多く見つかっています。ただし黒曜石は千曲川流域、現在の長野県星ヶ塔(ほしがとう)産が多くを占めていることがわかっています」と佐藤さん。また石斧に使われている蛇紋岩も現在の糸魚川周辺からのもの。当時の縄文人たちはモノと人の交流が盛んにおこなわれていたことが伺われる。

3つの部屋を後にして旧体育館の方に足を向ける。広いスペースには大地の成り立ちからこの地の自然環境を解説する展示、さらに旧石器時代、縄文時代、弥生時代から中世、江戸時代までの埋蔵物や資料などが展示されている。

「とくに縄文時代に関しては草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6区分に分け、それぞれの時代の土器など埋蔵物を展示しています」(佐藤さん) 展示されている土器や道具類のすぐ手前にイスが並んで置かれていて、そこで座ってじっくりと展示物と向き合うことができる。遺跡や埋蔵物が好きな人にはたまらない空間だろう。「実際、長いこと座って見られている方もいらっしゃいます」と佐藤さん。実物とこれほど近い距離で対面できる機会はそれほど多くはない。それだけでも価値ある展示だと実感できる。


何と言ってもこのスペースでの目玉は中央にひと際目立つ原寸大の竪穴式住居だ。中津川左岸で見つかった沖ノ原遺跡から見つかった住居跡を再現したもの。沖ノ原遺跡は信濃川の支流である中津川の河岸段丘上の高台(川床から約160メートル)に位置する縄文時代中期後葉の遺跡で直径約120メートルの環状集落だ。

佐藤さんは竪穴式住居に案内しつつ説明する。「わかっているのは柱の位置と大きさでした、それに当時の建築技術を想定して再現しました。とくに重要なポイントはこの地域の豪雪です。冬場は3~4メートルにまで達するという積雪に耐えうる構造にしなければなりません。そのため屋根が鋭角に高くそびえたつ構造になりました」
当時の縄文人の男性の平均身長は150㎝ほどだったというが、そのため入り口は低く腰をかがめて中に入る。ところが中の空間は意外に広い。長径7m、短径6mの楕円型で、柱は太い縄で縛られて組まれている。天井は吹き抜けになっていて、最上部の穴は空気孔のようなものだろうか。
足元を見ると中央に小さな石で組まれた細長い楕円型の窪みがある。「これが当時の囲炉裏です。小さな石をモザイク状に敷き詰め内縁を覆い、その中で木をくべました。楕円の先に土器が埋められていて、煮炊きに利用されたと思われます」と佐藤さん。この囲炉裏は発掘現場でそのまま型取りをして忠実に再現したものだという。ここで火をたいた煙が自然に上に昇り、天井の穴から排出される仕組みだという。

暗い竪穴式住居の中にいると、悠久の時間を隔てて私たちの先祖である縄文の人たち、その家族の営みが立ち現れてくるようだ。それにしても、長い冬、豪雪の中で彼らはこの地に耐え忍び生活していたものだ。 素朴な疑問をぶつけると佐藤さんは豪雪地帯だからこそのメリットがあるという。 「当時縄文の人たちにとって雪はむしろ恵みでもありました。1つは雪がすべてを覆うのでソリなどで移動が楽にできた。材木のような大きな荷物はふだん森の中を運べませんが、ソリに載せたら楽に運べます。あと動物の足跡が残るので狩りには非常に有利になります」
現代人からすると豪雪は大変な障害になる。だが縄文人たちの生活様式からしたらメリットが大きいのだ。しかも大量に降った雪は春になると雪解け水となり、植物や動物たちひいては人を育む源になる。 山奥の豪雪地帯は縄文人たちからしたらあらゆるものが揃うパラダイスなのだ。
だからこそ信濃川に清津川や中津川、志久見川が支流として流れ込むこの地に、旧石器時代から縄文、弥生時代を経て中世、近世と人が住み続けた。そしてその膨大な歴史の蓄積がそのまま多くの遺跡として残った──。
ちなみに旧体育館のスペースには秋山郷の自然や生活に関する展示スペースもある。江戸時代末期にこの地を旅した鈴木牧之が書いた『秋山記行』をベースにしたものだ。そのほか1階には苗場山麓ジオパークの紹介ブースやコミュニティスペースがある。
「旧石器時代から近世まで、津南の豊かな文化の蓄積に触れることができる施設として、ぜひ皆さん『うもれあ』に足を運んでいただければと思います」と佐藤さん。町にはもう1つ、体験型施設として「なじょもん」が知られている。「うもれあ」で多くの埋蔵文化財に触れ、「なじょもん」で実際に土器づくりやアンギン編みづくりなどの体験学習をするのもお勧めだ。
■津南埋蔵文化財センター「うもれあ」 所在地 〒949-8311 新潟県中魚沼郡津南町中深見甲2348 TEL/FAX 025-755-7011 E-mail info@tsunan-maibun.jp https://tsunan-maibun.jp/category/news/ 開館時間 9:00~17:00(最終入館 16:30) 休館日 4/1~11/30 →月曜(祝日の場合は翌平日) 12/1~3/31 →土・日・祝日、年末年始 入館料 無料

文本間 大樹
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