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2024.03.26Story

#縄文

「縄文ハイク」と「カモシカウォッチング」で、雪と縄文人の、深い関係を追体験する!

本間 大樹

冬になると積雪が優に3メートルを超える津南。一見過酷な環境はじつは狩猟採集民の縄文人にとっては楽園だった⁉ スノーシューを履いての実体験ツアー「縄文ハイク」と「カモシカウォッチング」で、縄文と雪の深い関係を体感しよう!

ブナや杉が生える林の中をスノーシューで踏破する。夏の間は藪などで直線的に歩くのは困難だが、積雪が2メートル、3メートルとなると多くの藪は雪の下で、はるかに歩行しやすくなる。

深い雪こそ縄文人の生活にはプラスに働いた!?

「ふつうに考えると、この雪深い津南の周辺地域に、まだ文明や技術が発達していない縄文人が生活するのは不便で難しいだろうと考えます。ところがどうやら、この豪雪地域こそ彼らにとっては生活に適した楽園だったことがわかってきました」
と話すのは、津南町観光地域づくり課の石沢久和氏だ。

いまから約1万年前に最終氷河期が終わり、地球は次第に暖かくなっていった。100メートル以上も海面が上昇したことで、かつて陸続きだった対馬周辺が海峡となり、温かい南からの暖流である対馬海流が日本海にどっと流れ込んできた。
冬になるとシベリア大陸からの冷たく乾燥した季節風が吹きつける。暖流が流れ込んで温かくなった日本海を吹き抜ける間に、風は海からたっぷりと水蒸気を吸い上げ、巨大な雲の塊りとなって日本列島の山々にぶつかる。そして雪となって一気に里山に降り積もる。これがこの地域の豪雪ストーリーのはじまりだ。いまから約8000年前、ちょうど縄文時代早期から中期にかけての頃だという。

ところがこの雪がじつは縄文人に多くの恵みをもたらすことになった。その一つが狩猟がしやすくなったことだと石沢さんは解説する。「夏場だと、動物は茂みに逃げ込むと人の足ではなかなかそれ以上追いかけることができません。ところが冬になり豪雪が降ると、茂みが完全に雪で覆われるので、障害物がなくなる。しかも雪面に獲物の足跡がしっかりと残るので、ずっと追いかけていけるのです」

石沢さんによれば、そもそも雪が生活に不便をもたらすというのは、大規模な農耕が始まった弥生時代以降の常識だという。「稲作を中心とする農耕民族にとっては、冬は本来の農業ができない季節です。まして雪に覆われてしまえば、生産性はほぼありません。せいぜい家で農具などの道具を作ったり、衣服を織ったり編んだりするくらいでしょう。冬も雪も辛くて不便なもの──。その意識と先入観が現代の私たちまで続いているわけです」
そのため1972(昭和47)年に沖ノ原遺跡が発見されるまでは、こんな雪深い場所に縄文人の一大拠点があるとは、考古学者は誰も考えていなかったようだ。

信濃川が長野県から新潟県に流れ込み、中津川と合流するあたりの右岸には9段にわたる河岸段丘が発達している。そのもっとも古い最上位の段丘面に沖ノ原遺跡がある。発掘調査の結果、半径130メートルの環状集落であることが判明した。少なくとも200軒以上の住居があったと推定されている。

「しかも、その集落は数百年にわたって住み続いたことが調査の結果わかったのです。その後も津南だけでなく十日町や魚沼など、信濃川周辺には縄文遺跡が次々に発見されていきました。豪雪地帯になぜ縄文集落が密集し、しかも長く続いたのか? 先ほどの狩猟もそうですが、調べるほどに豪雪こそが縄文の生活に大きな恵みを与えていたことがわかってきたのです」と石沢さんは力説する。

まずは津南にある農と縄文の体験実習館「なじょもん」から林を隔てた場所にあるmori cafe付近に集まり、「縄文ハイク」のガイダンスを受ける。

スノーシューを履いて縄文ハイクに挑戦!

縄文と雪はどうやら切っても切れない関係のようだ。その関係を体感する、それが「縄文ハイク」と「カモシカウォッチング」の大きな狙いだ。「まずは体験してもらうのが一番です」と、石沢さんに誘われて「縄文ハイク」のルートを辿ってみることになった。津南町の農と縄文の体験実習館「なじょもん」から、まずは車で施設の近くにあるmori cafe付近まで移動し、軽くガイダンスを受けて、いよいよ縄文ハイクの始まりだ。まずは雪原を歩くためのスノーシューを装着する。
「初めての人が多いですね。じつは地元の人たちも『かんじき』はよく使いますが、スノーシューを使う人はあまりいません」と石沢さん。たしかに最初は装着が面倒に感じるが、一度コツをつかむと大丈夫。つま先をしっかりと紐の中に通し、その後かかとを止め、最後につま先を絞るように紐を引っ張って止める。さあ、出発だ!

はじめてスノーシューを付けるときは少し手間取るが、慣れてしまえば簡単。かかとは少し上の方でしっかりと固定することがポイントだ。

カフェの裏手がすぐ森になっていて、その森の向こうに「なじょもん」の敷地内にある竪穴式住が数棟建っている。そこを目指して縄文人になったつもりでの雪上歩行だ。スノーシューを滑らせて森の中に入り込んでいく。竪穴式住居まで距離にして約500~600メートルほど。スノーシューなので深く雪に潜ることはない。できるだけ足を上げずに引きずるようにして歩くのがコツだ。縄文人もきっと「かんじき」のようなものを装着し、雪上を歩いていたに違いない。

ちなみにこの時の積雪は約1メートル。例年に比べたら異例なほど少ないほうだ。
「例年なら、だいたい3メートルくらいは積もっています。もっと表に出ている木がなくて歩きやすい。2月3月くらいで積雪が増して固くなった雪の方が歩きやすいですね」

できるだけ前の人が通った足跡に合わせて歩行するのがポイント。慣れてくるとしだいに楽に足を進めることができるようになる。

約20分の雪上歩行体験で、いままでと違う視点が得られる

途中に小さな足跡がテンテンと雪の上に。「これ、ウサギの足跡ですね。ほら、ずっと続いているのがわかるでしょう?」
石沢さんの指さす方向に足跡が続いている。なるほど、これを辿ればウサギを見つけることができるわけだ。縄文人が雪を味方にして獲物を追ったことが、実体験として理解できる。

雪上についているウサギの足跡。このような足跡を追って行けばいいので雪のある冬の方が猟がしやすい。

慣れないスノーシューは最初こそ足を上げるときに先端が雪に引っ掛かたりしたが、要領を掴んでくるとそれもなくなる。だが油断は禁物だ。「ところどころ、下が抜けていて落とし穴のようになっているところがあります。とくに横木の近くなどは危ないので気をつけて下さい。私の通った足跡に沿って歩いてもらえれば大丈夫です」
注意深く石沢さんの足跡を辿る。気温はほぼ0℃だが、いつしか体中が熱くなり汗をかいている。

15分ほど歩くと、林を抜けて一気に視界が広がる。左手に、雪の上に茶色い竪穴式住居の屋根の先端が数軒突き出して見えている。
「この景色がまさに縄文時代の人たちが見ていた景色です。雪に覆われているので、舗装された道路や現代の建築物なども見えません。その意味でも雪は大きな役割を果たしてくれています」
白い平原に突き出た縄文の竪穴式住居、その先端の一つからかすかに煙が立ち上っている。「あそこにすでにスタッフが火を焚いて待ってくれています」
雪の林の中で狩猟を終えた縄文人もまた、獲物をぶら下げながらこうして雪の中の自分の家に戻ったに違いない。目印は屋根から立ち昇る煙だ。そこに自分を待っている暖かい火とそれを囲む家族がいる──。ふと、そんな幻想のようなものが沸き起こった。

雪の中に埋もれて屋根の先のほうだけが出ている。おそらく縄文時代もこのような光景が広がっていたに違いない。

津南の「温かい雪」を縄文人たちは最大限に利用した

住居の中に入るとまずその薄暗さと同時に、その暖かさに驚く。中央に赤々と炎が揺れている。炉の火を囲むようにして座ると、スタッフの人がすぐに温かいお茶を出してくれた。クロモジという薬草のお茶で、漢方などでも使われているそうだ。香りがよく疲れが吹き飛ぶ。縄文の人たちもこうしてお茶を飲んだに違いない。

「縄文の人たちの生活をしのんで、肉の代わりにこの火でえごま味噌をつけたフランスパンを焼いて食べます。とても好評です」
ただし、今回は「トチの実せんべい」だ。石沢さんは、「じつは縄文人もクッキーを作っていたことが発掘調査で明らかになっています。トチやクルミなど木の実を粉にして練って焼いたものが炭となったクッキー状炭化物というものが出土しています。そんなことを思いながら食べて下さい」と勧めてくれた。トチの実の香ばしい香りと、パリッとした食感がたまらない。

「縄文ハイク」では炉の炎で肉を焼く代わりにパンを焼いて食べる。新鮮な野菜やハムをはさんで食べるとこれが格別なおいしさ。

竪穴式住居とは地面を掘り下げて床面を地表面より低く構築する住居のこと。この日入った住居は半径が3メートルくらい。中央の石が円形に並んだ炉は、実際に発掘された遺跡のものを模したそうだ。ただし、柱や屋根などの構造物に関しては有機物なので残っておらず、雪の量と重みに耐えられることを想定に基づいての建築だという。炉を囲むように太い掘立柱が建てられ、そこにまた太い梁が渡されて外壁と屋根になる部分を支えている。屋根部分は茅などの植物で覆っている。

竪穴式住居の中は薄暗い。中央に炉があり赤く炎が揺れている。天井には排気のための穴が開いていて、煙が自然に外に出ていく。太い柱が組まれ屋根は葦などで吹かれている。

石沢さんは縄文人と雪の深い関係を話してくれた。「これらの資材を集めるのも、雪が積もった後の方が作業しやすい。積雪がある時期に木を伐り出して、2月から3月くらいの固く締まってる雪の上を、山ソリと呼ばれる大型そりで雪上を滑らせて運ぶのです。雪で茂みも隠れているし多少の地形の凹凸もなだらかになります。雪がなければ絶対に運べない大木も、雪上であれば運べるのです」
さらにさらに……。
「深い雪は天然の風よけでもあります。積雪がそれこそ3メートルを超えるくらいになると、雪ですっぽりと住居が覆われます。するとどんなに強い季節風が吹いても厚い雪の壁が守ってくれます」

積雪が優に3メートルを超えるこの地域では、竪穴式住居ごとすっぽりと覆われてしまう。それが風除けや保温効果を高めることになる。

中で火を焚いているので、その壁がまさに保温効果を高める。ちょうど雪で作った「かまくら」の中が暖かいのと同じだ。それにはこの地域の独特の雪質も関係している。「この地域の雪質は湿っていて重い。青森や北海道の様な非常に寒冷な地域の雪は細かいパウダースノーで、サラサラしているので風が吹くと飛散して積もりにくい。ところがこの地域の雪は湿っているのでどんどん積もるのが特徴です」

じつはこのあたりの緯度は北緯37度で、ギリシャのアテネやアメリカのサンフランシスコと同じ。何れも温暖な地域だが、同じ緯度のこの地域が豪雪地帯なのは前に話したように日本海と季節風による相互作用による。
「雪はたくさん降りますが、温かい雪だということができるでしょう。降り積もっても雪下は氷点下にはなりません。だから津南では雪下ニンジンが可能なのです」
野菜は0℃近くになると自身の細胞を守るために糖度やアミノ酸値を上げる特徴がある。氷点下になると細胞が死んでしまうが、雪下ニンジンは、まさにこの地域の暖かい雪だからこそできる名産品なのだ。縄文の人たちもまた、この暖かい雪の恩恵を存分に利用してきたということだろう。

竪穴式住居で縄文の豊かさと、僕たちが失ったものを知る

竪穴式住居の中は窓がないので昼なお暗い。だからこそ中央の炉の火の光の揺らめきが、なんとも幻想的で自然に気持ちが落ち着き、安らいでくる。唯一外光が入るのは入り口の他に炉の上の屋根の天上部分だ。炉の煙は上昇して天上の穴から外に出ていく。そして新鮮な空気はつねに入り口から入ってくる。空気の循環も考えられているのが竪穴式住居の特徴だ。

ふと、約5000年前、この家で暮らす縄文の家族のことを想像してみる。彼らは狩猟採集民族でありながら、定住生活をしていた。通常、新石器時代に分類される人々は狩猟採集民族だが、定住はせず移動して暮らしていた。しかも、最近の研究では、縄文人は近くでクリの木などを栽培する、簡単な農業も行っていたらしい。

定住が可能になって変わるのは家族構成だ。石沢さんは、「移動民の家族にとって足腰が弱くなり歩けなくなった高齢者は足手まといになる。動きが鈍くなった段階で、高齢者は捨て置かれたでしょう。ところが縄文人は定住なので高齢になっても基本は死ぬまで一緒に子供や孫たちと暮らすことができたのです」と話す。

定住生活で大家族での家族の絆と助け合いの心が育まれる。夜な夜な炉の火を囲み、祖父母、親と子どもたちが食事をする。長い冬の夜はおそらくおじいちゃんやおばあちゃんが昔話や貴重な体験談を話したに違いない。また父親は今日の狩りの話や食料となる木の実や果物などがどこにあるかを語っただろう。

揺らめく炉の炎はなぜか人の心を落ち着かせ素直にさせてくれる。炉の炎こそが生活の根源であり、命の綱で会った縄文人のDNAが、いまも私たちの中に生きているからに違いない。

ちなみに、縄文人の脳の大きさは現代人よりも大きかったとする説がある。彼らは今の現代人の私たちと違って、あらゆることを自分の手と足、頭を使ってこなす人たちだ。男であれば山や海、川での狩猟や漁労、採集のすべてを自分で行う。あらゆる道具を作り、家を建て、水を運び、木を伐り薪にして火を起こす。周囲の山林の地形や自然を覚え、動植物の種類から天候の変化までを、実体験として脳に蓄積する。そして五感をフル活動させて獲物を追い、クマなどの外敵の存在を察知する。それらすべてに自分だけでなく家族の命がかかっている。だから、真剣そのものだ。縄文人は現代人よりはるかに脳を使っていたと言えるかもしれない。

そんな彼らは自分でなんでも作り、なんでもこなしてしまう。現代人から見たらスーパーマンのような存在だったのではないだろうか? そして、きっと一級の「語り部」でもあったはずだ。毎晩、車座での家族の会話も、おそらく途切れることもなかったに違いない。しかもすべて実体験に基づく話だから、説得力があり面白い。きっと子供たちはそんな祖父母や両親の話を目を輝かせて聞いていたに違いない。

「なじょもん」にある竪穴式住居は利用の自由度が高いことも特徴だという。石沢さんは、「根強い縄文ファンの方々がいて、ここで火を焚いて仲間と寝泊まりしたり、子どもたちが体験学習で泊まったりしています。私も若い頃、皆でここで音楽を流してお酒を飲みながらなんて、ちょくちょくやっていましたね」と笑う。

ほの暗い竪穴式住居の中で、揺らめく炉の炎をながめつつ、縄文と縄文人に思いを馳せる。雪と縄文の深いかかわり、その中で育まれる人の知恵と温かい心の交流。縄文の人たちが豊かに持っていて、現代の私たちが失ったもの──。
「縄文ハイク」はそんなことを感じさせてくれる、貴重な体験となるに違いない。

炉を囲むとなぜか不思議に会話が弾む。かつて竪穴式住居の中で知人たちと夜通しの飲み会もやったことがあるという石沢久和さん(左)。

「カモシカウォッチング」で秘境体験

おなじく冬の縄文生活を実体験できるのが、「カモシカウォッチング」だ。信濃川の支流中津川に沿って日本秘境百選の一つである「秋山郷」がある。約30万年前、苗場山の大噴火によって流れ出た溶岩がそれまでの中津川とその付近の河岸段丘の一部を埋め尽くした。

石沢さんが説明する。「苗場山は標高2145メートルです。中津川と信濃川が合流する地点がそこから20キロ先で、標高が約150~200メートルくらい。すると勾配率は2000メートル対2万メートルですから、10パーセントとなります。大変な急勾配ですから中津川の流れの速さがわかるでしょう。30万年掛けてその急流が刻んだのが秋山郷のV字渓谷です」

今回、「カモシカウォッチング」で向かうのはその秋山郷にある「萌木の里」という施設の近くにある、「シシ穴」と呼ばれるスポットだ。中津川沿いに車を上流に向けて走らせる。坂の勾配が急になり、道路も次第に細くなってくねくねと昇っていく。津南の町の周辺や信濃川周辺の河岸段丘の地形とは打って変わって、川の両側に急峻な山がせり出し、まさに渓谷の底を走っている感覚になる。まさに秘境というにふさわしい光景だ。

15分ほど走ったところに「萌木の里」があり、そこで車を降りてスノーシューを履いて山に入っていく。「ここから約1キロメートル弱ほどのところに『シシ穴』と呼ばれる断崖絶壁があります。シシとはアオシシつまりカモシカの事で、その付近でよくカモシカが観察される。まるで巣穴のような場所と言うことでこの名前が付けられました」と石沢さんが説明してくれた。

ちょうど天気も雲が晴れ初め、日差しが射してきた。これならカモシカを発見することができるかも知れない。ちなみにこれまでは農と縄文の体験実習館なじょもんでの「カモシカウォッチング」体験では、遠くにかすかに見ることができたのも含めて、遭遇率はほぼ100パーセントだと石沢さん。遭遇できることを祈ってスノーシューの足を進める。

冬以外はなかなか入り込むことが難しい山奥も、豪雪によってスノーシューで比較的楽に入り込むことができる。

「この辺りは夏場は茂みが深くて、とても入っていける場所ではありません。じつは12月にも来たのですが、積雪が足りず、途中から木がまだ雪に埋もれきれず、先に進めませんでした。今回は大丈夫だと思います」
石沢さんの後ろについて「シシ穴」を目指す。どんどん山奥に入っているのだろうが、雪が積もっているため、木々に邪魔されず、それほど深く山に入っている感じがしない。

人を峻拒する柱状節理の絶壁──縄文的な神性がそこに

15分ほど歩いただろうか、やがて前方に山の頂きが見えてきた。白い雪に覆われた山頂の下に黒々とした岩の塊がつきだしている。「前回来た時はこのあたりがまだ藪がたくさん顔を出していたので、ここからシシ穴を眺めました。ほら、あの岩がシシ穴です」。やはりあの巨大な岩肌がそうなのだ。「今回は進めますので、もっと近くに行きましょう」。石沢さんはさらに奥に入っていく。

しばらくすると目の前の木々がなくなり、前方に雪に覆われた巨大な山塊と、その下にグッとせり出して、こちらに向かって覆いかぶさって来そうな断崖絶壁の景色が広がった。これがシシ穴の全景だ。高さは100メートル近くあるだろうか? よく見ると岩肌は細かい筋状に割れ目が走っている。この近くの見玉集落から見える「石落し」という柱状節理の巨大な岩肌が有名だが、それと同じくこちらも柱状節理だろうか?

「確かにそうなのですが、見玉のものが30万年前の苗場山の噴火によってできたものに対して、こちらはもっと古く80万年前の鳥甲山の噴火のときの溶岩(前倉溶岩)による柱状節理です。ですから見玉のものよりも50万年分風化しているので、割れ目がもっと細かくなっています。また雪崩などの浸食により独特の形になっています」
ちなみに「柱状節理」とは、溶岩が冷え固まることで縦にすじ状に割れ目が走り、柱が連なったように見えることから、このように呼ばれている。

80万年前の鳥甲山の大噴火による溶岩が固まり、柱状節理として露出した「シシ穴」。カモシカがよく現れる秘境スポットだが、まるで今にも覆いかぶさってきそうな巨大な岩塊に圧倒される。

「ここらへんは秋山郷の山奥、地元の人でもほとんど足を踏み入れない場所です」と石沢さん。いままで見たこともないほどの雄大で迫力のある景色だ。しかも、鳥の鳴き声も川の流れの音すらしない、全くの無音の世界。視覚の迫力と聴覚のアンバランスさが、ひとしお非日常の感覚を搔き立てる。たしかにここなら、カモシカが突然出てきても違和感がない。

と同時に、その大迫力の岩肌と山塊が、私たち人間をどこか峻拒して立っているようにも思える。俗世にまみれたちっぽけな人間が、簡単に入り込んではいけない場所なのでは? そんな考えが浮かぶほど、手つかずの自然の力を感じさせる。圧倒的な自然に対したときの畏怖のような感覚。もしかすると古代縄文の人たちも、畏怖する自然を神と崇め、そこに自由に生存が許されている動物たちを、神の使い手のように感じていたのかもしれない。

「残念ながら、ちょっと今日はいないかなぁ……」と石沢さん。しばらく山と絶壁を注意深く探し続けたが、カモシカの気配はない。

ふだんは地元の人でも足を踏み入れないという「シシ穴」。これまでのツアーではカモシカとほぼ毎回、遭遇できたという。

付近で撮影されたカモシカ。本写真はジオパーク写真コンテスト入賞作品。

10分ほどその場で目視を続けたが、結局今回は遭遇敵わず退却することに。残念は残念だけど、正直あの山の迫力と圧力から早く逃れたいという気持ちもあった。人跡の及ばない自然の存在感とパワー。ときにそれは厳しく人を遠ざけ、ときにやさしく出迎えてくれる。おそらく縄文人が感じていたものと同じような感覚を、「カモシカウォッチング」は体験できる。もちろん実際にカモシカを発見できれば、その感覚は倍増するに違いない。

★「縄文ハイク」も「カモシカツアー」も現時点では開催日時を特定していません。ご希望の方は下記に連絡をお願い致します。
連絡先 津南町観光協会 025-765-5585

本間 大樹

ほんま たいき|1963年、新潟市生まれ。早稲田大学を卒業後、東京の出版社で単行本や雑誌の企画・編集に携わる。2007年独立し、フリーの編集兼ライターとなる。2012年、Uターンして新潟市の実家に拠点を移しながら活動を続ける。現在、単行本の執筆、地方新聞の企画記事作成と共に、新潟市安吾の会に属し、企画運営を行いながら様々な文化活動を行う。主に新潟・佐渡を中心にした文化・歴史の取材、記事作成に携わりながら、あらたな地域の可能性を探る。

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