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Nao Nakai

2021.12.04Story

#大地

龍ヶ窪の水──自然と神の奇跡の恵み

本間 大樹

1日4万トンもの水が沸く龍ヶ窪

うっそうとした森の中に静かに横たわる「龍ヶ窪」。1日でその水がすべて入れ替わるほどの湧水量を誇り、全国名水百選の一つでもある。

 ブナやミズナラ、ホオノキなどの広葉樹が茂る深閑とした森の中に、忽然と現れる「龍ヶ窪」の池。鏡のように透明な水が静かに湛えられている光景に、誰もが神秘的な力を感じるに違いない。

 長野県と新潟県の県境近く、豪雪地帯として知られる津南は、豊かな水に恵まれた土地でもある。最近は津南の水としてペットボトルで売られているので、水のおいしい場所であることを知っている人も多いだろう。

 その湧水地の代表が中津川と志久見川の間、信濃川右岸の赤沢台地にある「龍ヶ窪」だ。 湧きだす水は毎分30トン、1日4万トン以上にもなる。長径220メートル、短径70メートル、約1.2ヘクタールの池の水が、1日で入れ替わってしまうほどの湧出量だ。1974年に県の自然保全地域に指定され、1985年には環境庁の「名水百選」にも選ばれた。量だけでなく、水の質も折り紙付き。

 どんな干ばつでも枯れることはない──。竜神が住むとされる龍ヶ窪は昔から伝説の宝庫でもあった。

伝説その1

 その昔、この地域に雨が降らず、村人は食料どころか水さえ手に入らなかった。ある青年が山に登ったところ、昼寝をしていた龍を見つけた。その脇にあった龍の卵を持ち帰ったところ、怒った龍が村を襲った。村人は自分たちの惨状を訴え、どうか子どもたちだけは助けてくれと必死に懇願した。村人たちの困窮と必死の祈りに感じ入った龍は、三日三晩雨を降らせ池を作ってやった。それが龍ヶ窪であり、村人は龍に感謝し、竜神として祀った。

 

伝説その2

 以来、豊富に水が湧き出るこの池に、水不足で苦しむ松之山や南魚沼地方から水をもらいに来る習わしが続いた。日照りが続くと一升樽に酒を入れてやって来て酒を龍ヶ窪の弁天様に捧げたあと、村人たちと酒を飲む。空になった樽に水を入れて持ち帰る。持ち帰った水を雨を降らせたい土地に撒くと、必ず雨が降ったという。

500メートルの台地に豊富な水がこんこんと湧きだす

 龍ヶ窪の水は澱むことなく、こんこんと湧き出る清水が絶えず循環している。透き通るような池の水は、対岸の木々の緑を反射し、春から夏は深いエメラルド色に輝く。真夏の暑さの中でも、湧き出る水は8℃ほど。そのため水面の空気が冷やされ、池には靄が立ち込め、幻想的な趣を醸し出す。昼なお暗き広葉樹林は、その冷気も合わさって、真夏でもひんやりと涼しい。そして秋になれば、紅葉の朱を映してさらに赤く染まる。

付近は龍が窪はもちろん、さまざまな場所から水が湧き出ている。
秋になると紅葉が広がり、また違った趣を味わうことができる。

 竜神伝説にふさわしい、神秘的で厳かなたたずまいの龍ヶ窪を一目見ようと、多くの人が訪れる。池の周辺には取水口があり、恵みの水を飲むことができる。超軟水の水は清涼な中にもまろやかな味わい。真夏の暑さの中でも湧き出る水は7℃~8℃で、ひんやりとしている。水筒やタンクに入れて、その「恵み」を持ち帰る人も多い。

水飲み場では好きなだけ龍が窪の水を飲むことができる。
竜神の恵みとされる龍ヶ窪の水に感謝し、池の横には龍ヶ窪神社が建てられている。

 驚くべきは龍ヶ窪がある場所が、標高約500メートルの高地だということだろう。赤沢台地と呼ばれるこのあたりは、近くに川がなく周辺の村々にとってこの龍ヶ窪の水こそが命の綱だった。ただし、伝説にもあるように、この清らかな水はどんな干ばつにも枯れることなくこんこんと湧き続け、遠く離れた村々からも水を求めて多くの人がやって来た。

 

 じつは湧水地は龍ヶ窪だけではない。赤沢台地にはその他、大小の湧水スポットがある。津南町森林組合代表理事の涌井九八郎氏は、「龍ヶ窪を含め計10か所ほど湧水地があります。すべて合計すると毎秒1.3トンもの水が、あちこちから湧きだしています」と話す。

 赤沢台地全体の年間の湧水量はなんと4068万トンに上るという。だから付近の村の人たちは昔から井戸を掘ったことがない。いまでこそ水道が各家庭にめぐらされているが、かつては生活用水も、田畑の農業用水も、すべて湧水でまかなってきたと涌井さんは言う。

津南の独特の地形がもたらした奇跡

 標高500メートルの台地全体が、豊かな水に恵まれた特殊な場所なのだ。それは津南の独特の地形がもたらした「奇跡」と言えるだろう。

 その一つが、扇状地が川によって削られ、隆起してできた河岸段丘だ。地図を見るとわかるが、津南周辺には南北に志久見川、中津川、清津川といった急流が流れ、東西に流れる信濃川に並行するように流れ込んでいる。

津南の地形の特徴は清津川、中津川などによってつくられた扇状地と、9段とも11段ともいわれる幾層もの河岸段丘、それに苗場山麓からの溶岩による複雑な地形が特徴だ。パノラマ模型を使って説明する佐藤雅一氏。

 「いまから30万年ほど前、中津川周辺は大きな扇状地でした。それが河川の浸食と隆起によって幾層もの河岸段丘になりました」と説明するのは、苗場山麓ジオパーク推進室長で学芸員の佐藤雅一氏だ。

 津南の河岸段丘は11段とも9段とも言われる層が重なっている。信濃川左岸の高台、「川の展望台」から見ると、重なり合う段丘とその平面がパノラマのように一望できる。「全国に河岸段丘はありますが、これほどの層の段丘が一目で見られるのは津南だけ。その意味で日本一の河岸段丘の地であることは間違いありません」

(佐藤雅一氏)
信濃川左岸にある「川の展望台」から望むと、津南の幾層もの河岸段丘と段丘面が一望できる。これほどの数の段丘を一望できるのは津南の地だけだという。手前を流れるのは信濃川。

 段丘の地層は上面に付近の火山活動によって降り積もったローム層と河川による堆積物からなる。しかしその下にはかつてこの地が海底であった時に堆積した土砂が固まった岩盤である魚沼層と呼ばれる固い層がある。

 ローム層と河川堆積層は水を通すが、魚沼層は水を通さない岩盤だ。水は魚沼層の上面で伏流水となり、段丘の崖下から湧き出る。「ちょうどテーブルの上に置いたスポンジに水を含ませていくと、そのうちにスポンジとテーブルの間から水が流れ出てくる。その原理と同じです」と前出の涌井さんは説明する。だから段丘ごとに、その崖の下付近から水が湧きだし、昔からこの地域は高地でありながら水の豊かな地だった。

 さらに近くの苗場山の火山活動が大きな影響を与えた。今から約30万年前、苗場山が噴火して、大量の溶岩を吹き出した。粘性の高い溶岩はゆっくりと下りながら、いまの赤沢台地の付近で止まった。佐藤さんは、「大量の溶岩が段丘の上に覆いかぶさり、冷えていくことでクラックやドームが内部にできます。その間に水が沁み込み、溶岩の縁沿いから水が湧きだす。それがいまの龍ヶ窪など赤沢台地のほとんどの湧水地です」と解説する。

豪雪はまさに自然の貯水池

 もう一つの奇跡が雪だ。津南は全国有数の豪雪地帯として知られる。2メートル3メートルの積雪は当たり前で、多い年には4メートルを超える。津南町史によれば昭和2年の豪雪で8メートルを超えた地域もあったという。

 1シーズンの降雪量(累積積雪量)は20メートルにもなるのがこの地域。その大量の雪が溶けて水になり、溶岩やローム層の『巨大なスポンジ』に貯えられる。それが段丘の崖や溶岩の縁などから吹き出すわけです

(佐藤雅一氏)

 雪自体が「自然のダム」と言われる。雨はすぐに流れてしまうが、雪はしばらく残る。さらにその雪解け水がローム層や溶岩のスポンジに貯えられるから、津南はまさに水の一大貯蔵庫でもあるわけだ。

 ちなみに苗場山麓の雪解け水は、約40年かけて龍ヶ窪など、赤沢台地の湧水地に湧き出ているという。その間、一切生活雑廃水などが混じることがない。ゆっくりとろ過された清らかな超軟水の津南の水は、地形と気候の奇跡的なコラボレーションによって生まれているのだ。

はるか苗場山麓に積もった雪が、自然の貯水池としてゆっくりと溶岩層でろ過され、麓で湧きだす。

 その冬の豪雪も、じつは日本列島と日本海の成り立ちとその絶妙な地理に関係している。約1200万年前、激しい火山活動と地殻変動で日本列島は大陸から裂けるように分離を始めた。そして8000年ほど前、縄文時代の早期に対馬海峡ができて暖流である対馬海流が日本海に流れ込んだ。日本海が暖流によって温められたことで、日本列島の冬の気候は劇的に変わった。大陸からの冷たい冬の季節風が温かな日本海を渡る間、その温度差でたっぷりと水蒸気を吸い上げるのだ。巨大な雪雲は越後山脈にぶつかり、その麓で一気に雪を降らす。

縄文時代からの悠久の自然が凝縮された「神の水」

 津南から十日町にかけては多くの縄文遺跡が発掘されている。山岳地帯でありながら、河岸段丘の広い平面がある。川が近くに流れていても、洪水で流される恐れがない。しかも豪雪と段丘と溶岩の組み合わせで、溢れ出る湧水に恵まれている。

 縄文人が集落をつくるのに、これほど適した場所はなかったと佐藤氏は言う。豪雪はいまの私たちからすると住みにくい環境と思えるが、じつは縄文人にとってそうではなかったと佐藤氏。

 津南周辺の雪は湿潤で重い雪です。これが東北に行くと気温が低くパウダースノーになる。すると降っても風に飛ばされこのあたりの雪のように分厚く降り積もることがありません

(佐藤雅一氏)

 分厚い雪の壁はじつは風よけになり、断熱の作用をもたらす。雪で作ったかまくらの中が意外に暖かいのと同じ原理だ。しかも雪で一面覆われることで木材など、ソリを使って運ぶことができたり、雪の上に残った獣の足跡を追うことで狩が容易になったりする。

 現代生活の基準で見ると大雪は不便ですが、縄文の頃はむしろ大雪が生活を利していた部分がある

(佐藤雅一氏)
農と縄文の体験実習館なじょもん」にある竪穴式住居の周りに積もった雪。その昔もこのように雪で囲まれることで風の直撃を受けず、むしろ暖かかったという。

 日本列島と日本海の成り立ちにまでさかのぼる、地形と気候の絶妙なバランス。それが津南の独特の自然環境を作りあげ、縄文文化の一大拠点にもなった。悠久の自然が生み出した津南の水は、遠くわたしたちの祖先の命を支え、長い歴史をつないでいまに至っている。尽きることなく湧きだす清らかな水──。竜神伝説さながら、それはまさに天の恵み、神の水なのだ。

本間 大樹

ほんま たいき|1963年、新潟市生まれ。早稲田大学を卒業後、東京の出版社で単行本や雑誌の企画・編集に携わる。2007年独立し、フリーの編集兼ライターとなる。2012年、Uターンして新潟市の実家に拠点を移しながら活動を続ける。現在、単行本の執筆、地方新聞の企画記事作成と共に、新潟市安吾の会に属し、企画運営を行いながら様々な文化活動を行う。主に新潟・佐渡を中心にした文化・歴史の取材、記事作成に携わりながら、あらたな地域の可能性を探る。

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